自由の敵に自由を与えるな

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モデルと粒度と陰謀論

人間の脳みそなんてたかが知れたものなので、世界や他者を総体のまま理解するなんてことはできるわけもなく、普通は適度な抽象化(単純化)によりそれらをモデル化し、そのモデル越しに対象を眺めていくわけです。意識するしないにかかわらず。

なので、いわゆる"わら人形論法"*1をあんまり批判しすぎるのも天に唾するようでどうかと思いますが、それでもモデルを作ったりモデルを批判するのにもそれなりの作法というものはあるでしょう。その一つに粒度*2の扱いがあります。

粒度に注意する

オッカムの剃刀と呼ばれる有名な箴言があります。「必要以上に多くの実体を仮定するべきでない」というやつ。あくまで「必要以上に」であって、必要なものまで切り落としたらダメなわけですが、対象が同じでもモデルの粒度によって、モデルにどの要素が必要でどれが不要かはおのずと異なってきます*3

モデルの粒度や精度、あるいは抽象度、言い換えればモデルのよって立つ枠組みに関する合意を欠いた議論はかみ合わない不毛なものになってしまいがちです。が、この"合意を得る"という営為は非常に人間的・政治的なものであったりもするわけで、論争がヒートアップするともっとも駆け引きの材料にされがちな部分だったりします。

ある粒度では十分適合するモデルも別の粒度で見ると全然ダメなんてのはままあることなので、粒度に関する合意を少しまぜっ返して優位な土俵を設定しようとしたり、あるいはそのモデルの粒度上切り捨てても問題ないはずの要素を「それを捨てるなんてとんでもない!」とぜんぜん粒度の異なる話を持ち出して叩いたり。まぁこういう具体例を出さないたとえ話もわら人形な感じではあるんですがw

陰謀論とモデルの粒度

陰謀論はよく批判されるようにモデルの単純化ですが、オッカムの剃刀的視点で見るとむしろ要素は増えています。通常の要素に加えて"闇の勢力""政府の走狗"などの新たな要素が追加されるわけですから。

なのになぜモデル総体としては単純化するのかというと、新しく追加される要素(闇の勢力とか)が既存の要素に比べて巨大・強力すぎて、既存の要素の存在がかすんでしまうからです。

これは言い換えれば粒度の問題でもあります。粒度の異なる巨大な要素を新たに追加したためにモデル総体の粒度が変わってしまい、これまで重要だった要素が無視してもよいささいな要素となってしまうわけです。そしてモデル全体としては新たに追加した要素ばかりが存在感を持つ単純な構造へと変わってしまう。

*1:

ja.wikipedia.org

*2:あるいは抽象度と呼ぶべき?

*3:日常生活の範囲では無視しても何の問題もない要素が、ごくミクロな範囲では無視できなかったりとか